〜Deir Paidir〜

第1章 黄泉(すなのまち)

October 13th, 2000

★ ★ ★




「それじゃ、行って来ます」
 薄手のマントを羽織って、扉を開ける。
「気を付けてね。出来るだけ明るい道を通るのよ。それから、人気の少ないところには行かないようにしなきゃダメよ」
「わかってるって。なるたけ早く帰るから。それじゃ」
 いつまでも心配そうに見送るティルテュにそう言って、ティルは家を出た。
 さすがにそんな子供じゃない、とも思うのだが、母親にとって子供はいつまでたっても子供なのだろう。
 だから、言葉通り早く帰ろう、と自分に言い聞かせて、もうだいぶ人気の少なくなった通りを走る。


 たぶん、前夜祭が始まる時間を少し過ぎているから、ほとんどの人が遺跡に集まっているのだろう。
 それ以外の人も、店も閉まったこの時間ではうろつくこともない。
 なにせ娯楽の少ないまちだ。
(しかし、時間には遅れてるからな。あいつらうるさいだろうし……大通り抜けるより一度森を通った方が早く着くな)
 まちは森に囲まれていて、その森の中には砂漠で一番大きな湖であるラー泉(ルツフ)がある。
 その側を通ると、人にも会わないし、意外に近道になる。
 森を通ることはティルテュの言いつけに背くことになる。
 しかも「森に必要以上に足を踏み入れてはならない」というまちの掟さえある。
 おそらくそれは、常に他のまちの襲撃の危険性があるからということなのだろう。
 それにも逆らうことになってしまうが。
 だが、今日は前夜祭。
 自分以外の人間がたくさん森に入っている。
 前夜祭の会場ホーン遺跡は森の中にあるからだ。


 ティルの家からまっすぐに西に向かうとラー泉。
 泉にぶつかって、直角に曲がって北を目指し、まちの外につながる大通りを横切ると遺跡に着く。
 曲がる回数が少ないというだけでも近い気がするから不思議だ。


 しん……。
 森に走り込むと、濃い緑が全ての音を吸収したように静かになる。
 空には、満ちきった淡い山吹色の月が真珠のように輝いていた。
 夜の空気は柔らかく、耳が痛くなるくらいに冴えわたっている。
 程なく木々の隙間から見えた泉の表面の、硬質なきらめき。
 月光の重なり合う、神秘の景色。
 泉の手前、森が切れて視界が広がる。
 一瞬目がくらんだ気がして。


 その刹那(せつな)に。


 短い、信号を受け取ったような奇妙な感覚がティルの胸を貫いた。
 聞こえない声で、名前を呼ばれたような……感覚。
 それが確かに自分の名であった気がして、ティルは振り向く。
 けれどそこには当然、誰もいない。
 揺らぐのは、ただ静かな水面。


 …………!!


 本当は、見てはならなかったのかもしれない。
 でも、目が離せない。
 身体(からだ)が、いうことを聞かない……。






 時間は、その時に止まった。



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