〜Deir Paidir〜

第2章 幻惑(であい)

November 12th, 2000

★ ★ ★




 どこかで、鳥が鳴いているようだった。
 締め切っているせいでそよともそよがない薄いカーテンの隙間から、柔らかな光が射し込んで。
 空間を切り取る光の道。
 切り取られた空間の、目に優しい闇の色。
 境目は鮮やかな切り口で。
 それは微睡(まどろ)むように、そっと揺れていて。
 枕に頬を埋(うず)めたまま、ただそれだけの光景を飽くことなく見ていた。
 虚(うつ)ろに開かれた瞳に、いやに明るい床の光溜まりの形がさかさまに映る。
 重い瞼(まぶた)は時折思い出したように瞳を湿らせて。


「……え? あいつまだ寝てるんですか?」
 階下から微(かす)かに聞こえる声……あれはフィンの声だ。
「そうなの。昨夜遅くに帰ってきたと思ったら、それからなんにも言わずに眠っちゃって……」
 これは、母親ティルテュの声。
 自分のベッドの中で、ティルはぼんやりとその話し声を聞いていた。
 どうやらフィンとアリルが昨日の夜にホーン遺跡に行かなかった件について来ているらしい。
 だが、そんなことはもうどうでも良かった。
 ……昨日の夜、ティルは結局ホーン遺跡で行われる前夜祭に行かなかった。
 それはつまり約束を破ったことであり、2人が来たのは当然のことだろう。
 そのくらいはわかる。
 だけど、
 そんなことより、もっと……。
 ぱたん、と音がしたかと思うと、急にあたりが静かになる。
 おそらく2人が帰ったのだろう。
 そして窓の外で聞こえていた鳥の声がぱたりとやんだ。
 人の気配に逃げて行ってしまったのか。
 だから音は何もなくなった。
 もしかしたら、自分の呼吸の音さえもが聞こえなくなってしまいそうなくらいに。


 そこに、木の床を鳴らす足音が響いた。
 それは目に見えないくらいの遠い場所で響くように思えたけれど、すぐに階段を上る気配がして、あっという間に近づいてくる。
 そうして夢と現実を結ぶ扉が、遠慮がちに叩かれて。
「ティル……? 起きてる?」
 間近から聞こえたその声に、ティルの感覚がわずかに反応する。
 浅い眠りから覚めたような気怠(けだる)さに、ほんの少しだけ身じろぎをしてみる。
 が、喉がかすれて声が出ない。
 そうやって黙っていると、やがてティルテュが音をたてないように入ってきた。
「ごめんなさい、入るわよ。……まだ、寝てるの?」
「いや……起きてる」
 その声は自分でも驚くくらいかすれていた。
 驚いたのはティルテュも同じようで、怠(だる)そうにうつぶせに横たわるティルの額にそっと手をやった。
「風邪ひいたのかしら、ひどい声してるわ。熱はないみたいだけど……。大丈夫?」
「ああ。ちょっと、眠れなかったから」
 ひどく見当違いな返答をしていることにティル自身気がついている。
 夜家に帰ってすぐにベッドに潜り込んだ。
 ティルテュもそれを知っているから、ティルは眠ったのだと思っている。
 けれど、眠れなかったというのは決して嘘ではない。
 何時間も、そう一晩中、じっと床を見ていた。
 朝日が昇って、部屋の中に光が満ち満ちていく様子を、小指一つ動かさずに見ていた。
 その刻々と変化する視界はとても綺麗だと思ったけれど。
 それでも、それがつまらないことに思えてしまうくらいに……。
「そうなの? ……ティルが大丈夫だって言うなら、大丈夫なのかもしれないけど……」
 心配そうに口ごもるティルテュに、ティルは申し訳程度に笑った。
「そんなに心配しなくても平気だよ。本当に、寝不足なだけなんだ。だからもう少しだけ寝かせてくれる? ちょっと疲れてて」
「じゃあ、私は下に行ってるけど……具合が悪いようだったら呼んでね。あと、ごはんも用意しておくから、おなかがすいたら起きてくるのよ」
 そう言いながら、何度も振り返り振り返りしてティルテュは部屋を出ていった。
 彼女にとって、たった一人の息子だ。
 ほんの少しの異変でも心配してしまうのだろう。
 ティルもそれは理解できる。
 できれば心配なんてかけたくない。
 ずっと自分を育ててきてくれた人だから。
 なにせ、こんな突然変異の子供なんて、育てるだけでも大変だったはずなのだ。
 なのに、今のティルにはそんな彼女に気を遣う余裕すらなかった。


 眠れない夜のせいではない。
 ずきりと重い頭のせいでもない。
 しびれるような指先のせいでも、もちろんない。
 ただそれは、眠れない夜の。
 止まった思考の。
 瞳に映った光の、その奥の。
 深い深い場所に刻みこまれるようにして残った、あの光景。
 それが全てを閉じこめる。
 声も、身体も、思考も、心も。






 鏡のような湖面に浮かぶ月。
 風に吹かれて消える星座。
 静寂を映すもう一つの空。
 そこに映っているのは金の色の髪を持つ自分……で、あるはずだったのに。
 そうでありさえすれば、何も変わってしまわなかったのに。
 けれど、鏡は時に不思議な世界を映し出す。
 目に見えぬものすら映し出す。
 そこにいたのは、


 大理石のような白い肌。
 黄金を溶かして水に流し込んだように輝く長い髪。
 ゆるく波を打つそれは、永遠にたゆたう水面に似て。
 愁いを込めたブルー・トパーズの瞳。
 何かを訴えようとしているような唇が、青い水面にそこだけ鮮やかに紅くて。
 悲しげなまなざしを俯かせ、ただその鏡にたたずむ『彼女』……。






 ずっと、『彼女』のことを考えていた。
 それだけを考えていた。
 他には何も思わなかった。
 思えなかった。
 湖面を介して、自分の代わりにそこにいた『彼女』……。
 あれは、一体誰なんだろう?


 ───あの子に、会いたい。
 どうやって家に帰ってきたのか覚えていない。
 けれど、家にたどりついて、ベッドに潜り込んで、ようやっと脳が正常に働き始めた。
 そうして、考えることが出来るようになって一番最初に思ったこと……それが、
 ───会いたい。
 ほんのそれだけの、短い言葉。
 なのに、それが全てだと思えてしまうのは何故だろう。
 いつの間にか願っていた。
 心がしびれ、思考回路を止めてしまうまでに強く。
 あの悲しい瞳を、救いたい。
 今までにこんなことがあっただろうか?
 こんなに苦しくて、痛いような思いは……。


 湖に行けば会えるのだろうか。
 その瞳に自分を映してくれるだろうか。
 そして、笑ってくれるだろうか。
 湖に映った、『彼女』は。



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