〜Deir Paidir〜

第4章 神話(きおく)

April 12th, 2001

★ ★ ★




 無闇に、時間だけが過ぎていく。
 しかし時間(それ)を報(しら)せるものさえがなくて、その場所は何かに置いて行かれてしまったよう。
 ただ異様なほどに聞こえる自らの脈だけがやけにはっきりしていた。


 ティルもようやっと着替えて、何とか一息つく。
 が、それでも緊張が解かれることはない。
「ディアドラ……大丈夫か?」
「ちょっと苦しいけど……でも、平気よ。それよりも、お母さまが心配ね……」
「あぁ……もともと体の弱い人だからな……」
 横たわるティルテュの額に光る汗をそっと布で拭いながら、ディアドラは辛そうに笑った。
 その笑顔はティルに心配をかけないため。
 だが、それも成功はしなかった。
 きっと、誰かが傷つくことは、自分が怪我を負うことよりもずっと苦しいのだ、この優しい人にとっては!
 ティルは、そんな彼女を見ていることが何よりも切なかった。
 胸が、痛い。


 それにしても……疲弊しきった人々が向ける凍った視線には、いい加減頭に来ていた。
 当然、彼らの視線を集めているのはディアドラだ。
 ティル以外の金髪の子供、ということがその理由であることは容易に推測できる。
 けれど。
 その視線がディアドラを余計に悲しませていること。
 それだけは許せなかった。
 百歩譲っても、「まわりを見られるほど冷静になってきたのか」などとは思えない。
 フィンとアリルが2人をかばうように座って、視線を少しだけさえぎってくれる。
 それだけがティルの理性を支えていた。
 しいん、と、重苦しい沈黙。
 それぞれの者がそれぞれの思いを抱く。
 不安と、悲嘆と、疑念と……。






 ぱたぱた、と駆け込んでくる足音。
 それは看護のために走り回っていたエーディンたちであった。
 姿が見えないと思ったら、どうやら別室で大神官ディアンの聖水作りを手伝っていたらしい。
 彼女らは、あちこちで倒れている者の側に駆け寄っては何かを話している。
 そうして、また部屋を出ていこうとして……エーディンが、ティルたちに気が付いた。
 最初は視線が合った、その程度だったのだが。
 すぐにその瞳が、驚愕に見開かれた。
 フィンがまずい、と思ったが、遅い。
「……ティル!? 誰、その女……! 金色の髪……!?」
 ざわ、とあたりが騒がしくなる。
 初めはどよめきだったものが、次第に大きくなってくる。
 おそらく誰もがきっかけを待っていたのだろう。
 エーディンは引き金を引いてしまったのだ。
 決して引いてはならない引き金を……。
「っち……。余計なこと言うんじゃねえよ」
 アリルが呟く。
 が、一度堰を切ったものは止まらない。
 人々の声はあっという間に怒号に変わる。
「金髪の子供!?」
「まさか、そんなことが!」
「いや、見ろよ、確かに金色だ!」
「じゃあ、あの女のせいで……?」
「そうだ、そうに違いない!」
 ティルがぎゅっと拳を握りしめた。
 それをディアドラがはっと気付く。
「だめ! だめよティル! 私ならいいの、これくらい……」
 ディアドラにとどめられて、ティルは唇を強く噛んだ。
 ティルたちが何も言わないことで、すぐに人々の声は収まっていった。
 普段ならその態度は火に油を注ぐことになっただろうが、熱気に体力を奪われた今の人々には、いつまでもティルたちを糾弾(きゅうだん)するほどの力は残っていない。
 フィンが、安堵に似た息を吐いた。
 だが……。


 静まっていく人々の声の中で、低く押し殺された女性の声が響いた。
「……の、せいよ……」
 それはいやによく反響する。
 ティルははっとした。
 その声は、ティルがよく知る人物だったから。
「全部……全部あんたのせいよ、ティル!!」
「な……っ!」
 眠る老女の横で、彼女がゆらりと立ち上がる。
 その瞳は怒りに染まっていた。
「ティル……あんたがいなきゃ、こんなことにはならなかったのよッ!」
「な、なんで……なんであんたがそんなこと言うんだよ、エヴァ!」
 ティルは声を荒げてエヴァを見る。
 信じられなかった。
 こんな突然変異の自分を、他の人間とまったく変わらず扱ってくれた、エヴァ。
 好かれているとこそは思わなかったが、そんなことを言い出すとは思ってもみなかった。
 エヴァは、ティルの戸惑ったような視線を受けても、それを逸らすことをしない。
「あんた……私の母さんからひとつ水晶をもらったわね。ほら、アレよ。前夜祭の日にあんたが来た時に渡されたもの! それを出してごらんなさい」
 突然何を言い出すのか、ティルにはわからない。
 しかし、思わず懐にずっと忍ばせてあった小さな袋を取り出していた。
 その紐(ひも)を解いて逆さにすると、中からぽろりと珠がこぼれ落る。
 すると……。


「え……?」
 その水晶球は、輝く七色の粒子をちらちらとこぼしながら、手の中で明るく輝いている。
 その光に視線を奪われて、言葉を発する者はもう誰もいなかった。
 ただ皆絶句して、ティルとエヴァ……そしてその光る不思議な珠を見つめている。
「それね。私、調べたのよ。なんだかそれを見てるだけで胸騒ぎがしたからね。私だって占い師の端くれだもの、それくらいわかるわ」
「……この水晶が、何だって言うんだ!?」
 エヴァは鼻で笑う。
「それをもらってから、物事がいやに思い通りになったりしなかった? 欲しいものが手に入ったり。なくしたと思ってたものが見つかったり」
 エヴァの問い。
 ティルは愕然としながら心の中で、ある、と答えていた。
 振り向きはしない。
 だが、今もすぐ後ろにいる。
「それはね、『願いの宝珠(オーブ)』よ。人間の欲望を現実にしてしまう、伝説の珠なの。呪いの秘宝なのよ!」
「欲望を……?」
 そして、それが呪いだと……?
「そうよ。だけどあんた、その魔力に騙されてんのに気付いてないわね」
「騙されてるだって?」
「ええ。あんたはその水晶の力を知らないまま、それに利用されたんだわ! それでラー泉(ルツフ)の水牢に封印されてたその子を解放したのね! その子の顔かたちに惑わされて……悪魔を復活させた!!」
 『悪魔』という言葉に、人々がディアドラに視線を移した。
 ディアドラの肩が、びくりと震える。
 ……こんなに、誰かを許せないと思ったことはなかった。
 エヴァだけじゃない。
 最初からディアドラを疑っているまちの人々もだ。
 自分がどう言われようと、そんなことはかまわない。
 それこそ今更、だ。
 でも。
 だけど!
 大切なのだ。
 何よりも。
 誰よりも。
 初めて自分の心に触れてくれた。
 本当は、誰かに触れてもらいたかった……。
 それだけで良かったのに、誰も踏み込んでは来なかったから。
 自分には荒療治が必要だった。
 無理にでも心を暴いて、開いて欲しかった。
 それを、優しく、ディアドラはティルを開いてくれた。
 傷つく覚悟はしていたのに、彼女は、ただ微笑んで固く閉ざされた扉の鍵をはずしてくれた。
 自分はどう言われようと、本当にかまわないのだ。
 だからこそ、この人を傷つけたくなかった。
 その傷が、痛い。
 手足を、もがれてしまったように……!
「何も言えないの? そうでしょうね。あんたが悪魔を解放したから、神がこのまちを見放したんだわ。金色の髪……って、化け物の証だったわけね。さしずめあんたたちは、悪魔とその使いってとこかしら?」
 珠を握る手に力が入った。
 手のひらが白くなるほどに。
「……まあ、当然よね、こんなあんたみたいな突然変異が生まれんのは。それもこれも、あんたの母親ティルテュの密通のせい……!」
「いいかげんにしろ!!」
 ビキ……ッ!
 乾いた音が響く。
 すべてを寄せつけないティルの双眸(そうぼう)に睨みつけられて……さすがにエヴァも動きを止めた。
 ティルの瞳に宿る、不思議なくらいの神々しい輝き、高貴な色。
 唯一の相手を守る、真摯(しんし)な瞳。
 言い知れぬ重圧が、そこにいた人々すべてにかかる。
 誰も、次に生まれるべき言葉を知らなかった。


 ……そこに。
 入り口の方から、見張りに立っていた男が息を切らせて走り込んできた。
「大変だ……異変に気付かれたっ! 銀のまちの奴らが……もう、そこまで来てる!」
「…………!!」
 ぴいんと張りつめた空気。
 月のない空に、真紅の影が堕ちる。
 ティルの手の中で、ひび割れた水晶玉が淋しく光っていた。






「オレの父さんは……このまちの人間じゃない」
 長い長い沈黙を破って、ティルが言った。
 ディアドラは驚いてティルを見上げる。
 『そのまちに生まれた者はそのまちの者と婚姻し、決して他のまちの者と交わってはならない』……いつの間にか定められたその決まり事。
「だから、オレは『罪の子』。だけどな、それだけじゃないんだ。……ここにいる誰もが、もう知ってるけど」
 人々が表情を強張らせる。
 けれどティルは気にとめる様子もなく、ディアドラにだけ語るように、静かに続けた。
「オレのばあさんは、7年前に銀のまちの間者の手にかかって殺された。それも、オレの目の前でね。オレはその時まだ小さかったけど。でも、護身用の剣でもってオレはその間者に斬りかかった。必死だったよ。目の前の肉親を守ることに」
 ティルは、とても穏やかだった。
 まるで昔話でも語って聞かせているように。
「それで、オレは凄惨(せいさん)な戦いの末に、そいつに勝ったんだ。何度も何度も剣を刺して、それが人間の形をとどめないまでに切り裂いて、殺した。子供って残酷なもんだな。でもそうでもしなきゃ、ばあさんを守れなかった。……結局守りきれはしなかったんだけど」
 静かな空間。
 ティルの声だけが響く。
「……だけど。そいつ……オレの、父親だった」
 あまりに淡々とした口調に誰もが息をのんだ。
「だから……オレは、父親殺しの罪人(つみびと)。他のまちの間者を倒した英雄なんかじゃない。……罪は……。やっぱり償わなくちゃならないよな……」
 そっと面伏せたティルの口元には、わずかに笑みが浮かんでいた。


 ティルはそれだけ言ってしまうと、つかつかと神像の前に歩み寄った。
 そこには……あの神剣がある。
 有史以前からこのまちを守っているという、『神を護る剣(つるぎ)』。
 誰も抜いたことがない高貴な刃。
 そのガラスで出来た柄(つか)を、握る。
 それを引き抜いて。
 しゃあぁぁん、と澄んだ音がした。
「ティル!?」
 ディアドラの悲鳴にも似た声。
 振り向いたティルは、ただ笑っていた。
「ディアドラ。君に会えて本当に良かった。ディアドラに会えなかったらオレ、きっとなんのけじめもつけられずに逃げて……何も出来なかったと思う。ありがとう……」
 その頃になると、ティルが何をしようとしているかに誰もが気付いていた。
「……いや! いやよ、行かないで……! あなた一人で立ち向かおうだなんて! 無茶だわ、危険よ!」
 必死にディアドラは頭(かぶり)を振る。
 それでも、ティルは立ち止まりはしない。
 きっと。
「守りたいものが出来たんだ。今までは別にそんなものなかったから逃げたままでいられたけど。けど、守りたい。このまちを……君を。そんな簡単なことに気付いたから」
 ティルの優しい……瞳の色。
 ディアドラは言おうとした言葉を飲み込んだ。
 そして一度俯いて。
「……それは、偽りの言葉じゃないのね」
「ああ。ごめん、ディアドラ」
「……いいの。いいのよ。でも、ティル……。お願い。これを持っていって」
 ディアドラはそっと、首から小さなペンダントをはずした。
 涙の形をした、七色の宝石。
 それを、ティルの首にかけた。
「ありがとう……ディアドラ」
 その言葉を聞いて、ディアドラは微笑んだ。
 泣き出しそうな、笑顔だった。
 誰も声をかける者などない。
 エヴァも。
 エーディンも。
 フィンも。
 アリルも。
 ましてその他の誰でさえ。


 最後の言葉を残して、ティルは大聖堂を出ていった。
 大きな決意をしたあとの、とても強い背中だった。
 その去っていく足音を、ディアドラがずっと見送る。
 本当は……わかっていたのだ。
 ティルのその心が、揺らぐはずのないものだということに。
 それでも、いて欲しかった。
 自分の傍(かたわ)らに。
 わがままだとは知っていたけれど。
 ああ、だけど。
 運命の歯車は回ってしまった。
 だから……。


(私も……決めるわ、ティル……)



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