〜Deir Paidir〜

第4章 神話(きおく)

April 28th, 2001

★ ★ ★




 戻ってきた神殿に、ディアドラの姿はなかった。
 当然だ。
 わかっていた。
 ……最初から。
 誰もが目を覚まし、呆然とそこに座り込んでいた。
 ティルテュが。
 エーディンが。
 イーヴが。
 エヴァが。
 誰もがただ目を見開いて。
「母さん」
 そっと声をかけたティルに、ふとティルテュが振り返る。
 わずかに眉をひそめて。
 異変を感じて駆けつけたらしい大神官ディアンも、ティルに何か声をかけようと口を動かすが、上手くいかない。
 奇妙な沈黙だった。
 英雄になり得たはずのフィンもアリルも、何を言ったらいいのかわからないような顔をしていた。
 ……いや。
 きっと誰もが起こったことの意味を知らなかった。
 だからどうしていいかわからない、そんな感じだった。
 ティルは薄く笑った。
 だって、誰にわからなくとも。
 そう、答えはもうティルが持っているのだから。
 と。
 ポロロロン……空間を裂くように、甘い音が鳴り響く。
 ティルがそちらに顔を向けると、そこにはあの吟遊詩人の青年。
 その銀の髪の奥で、不思議な瞳の色が揺れていた。
 ああ……ティルは瞳を和ませた。
「そうか……あんた、オレを探し(待っ)てたんだな」
「……えぇ」
 青年が笑う。
「砂に包まれた虚構の夜……王を退(しりぞ)けぬ限り永遠に続く夜の世界。片腕の王ヌァダを倒すのは、あなた以外にはいなかった。待ちましたよ、あなたを。それこそ何千年もね」
 ティルも、それに苦笑を返して。
「オレがそれだけの価値を持つ者かどうかは、わからないけどな」
「いいえ。もう充分わかっていますよ」
「オレを買いかぶりすぎだぜ、ミディール」
「そうでしょうか」
 沈黙はもう、崩れることはない。


 ティルは歩き出した。
 視線が集まる。
 だがそれがなんだというのだろう。
 すべてがわかってしまった今……何がティルを止められる?
 胸に光るペンダント。
 雫のカタチ。
 きっとこれは、君の涙。
 君のすべての思い。
 それさえわかっていれば、他には何も要(い)らなかったのに。
 青年の横を通り過ぎる。
 青年は───大地に縁する神、ミディールは、何も言わない。
 ティルも何も言わない。
 そしてティルは、代々の神官以外触れることがなかったという真紅のカーテンに、手をかける。
 そうして、その大きな布を……静かに引く。
 音もない。
 そのどこまでも深い色の紅(くれない)が、落ちる。


 カシャン…………。
 神剣が手から落ちて、
 甲高く響いた。
「……そこに……いたんだね……」
 慈しむように、愛おしむように。
 声は静かに反響する。
 大理石の白い肌。
 波を打つ長い髪。
 慈愛に満ちた穏やかな表情。
 まつげの長い瞼。
 安らいだ微笑みを浮かべる唇。
 薄く広がる鮮やかなヴェール。
 柔らかそうで綺麗なドレス。
 左手には生命(いのち)の象徴たる水瓶。
 右手には太陽の象徴たる杖。
 ずっとこのまちを守ってきた、
 美しい、光と生命(いのち)の、大地母神アナ…………
 いや、愛らしい少女、ディアドラ(災いと悲しみを招く者)。
 災いと悲しみを招く、その名にそぐわない、優しくて暖かな、砂漠のバラと呼ばれた少女。
 ひとりの少女。
 たったひとりの。
 それだけの。
 ゆっくりと、一歩ずつ……彼女に近付く。
「ごめん……ずいぶんと長いこと……待たせちゃったね、君を……。ずっと約束してたのに」
 台座に登って。
 その横顔を見つめる。
 そうだ。
 その姿を……その魂を、
 神話(きおく)の中で、
 ずっと、
 覚えていた。


   ソウ……生マレル前カラ、ズット……


 青年の爪弾く音楽が、小さく、わずかに、歌を綴る。

    月は彼女のもうひとつの姿
    太陽(アナ)の反射した光
    湖に映った姿は反射の反射
    裏の裏ならそれは表?
    満月が真上に浮かぶとき
    それは太陽(アナ)と月(ディアドラ)を結ぶ鏡になる
    新月が真上に浮かぶとき
    それは太陽(アナ)と月(ディアドラ)が重なるとき
    そこに新たな光の神(ルーグ)が合わさるならば
    虚偽(ニセモノ)の夜は明けるだろう

 それは、ティルの耳に届いていただろうか。
 フェードアウトするように、その楽器の音は消えていく。
 途切れることなく消えていく。


 そして、
 静けさが訪れる。
 まるで、この世界には2人しか存在していないように。
「オレは、そばにいるよ。ずうっとそばにいるよ。君のことが、好きだから……」
 ティルの指が、ディアドラの白い肌に触れる。
 さっきと何も変わらない……深い深い、
 海よりも深い温もり。
 そう、
 ティルだけが、
 感じている。
「大好きだよ…………永遠に」






 そして…………。



→ Next Chapter



第4章 神話 4 へ戻るおはなしのページに戻る終章 へ進む